LGBT

「男でも女でもない」私が抱いている「差別意識」について

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2017年11月26日 15時00分 配信
引用元:現代ビジネス

男性として生まれたものの自らの「性別」に違和感を覚え、同性愛、性同一性障害など、既存のセクシャルマイノリティへ居場所を求めるも適応には至らず、「男性器摘出」という道を選んだ鈴木信平さん。

そんな鈴木さんが、「男であれず、女になれない」性別の隙間から見えた世界について描いていきます。
今回は「差別」について大いに語ります。

 

私は差別している。自覚は、まだない。

もう十何年も前に新聞の投稿欄に載っていた言葉が、今も心に焼き付いて離れない。
投稿した人は恩師から受け取った言葉だと記していたような気がする。

私には ないと思うな 差別の目

批判的ではなく、主張的でもなく、自分に向けた言葉を人にも見える場所にポンと置いただけの言葉だった。

それまでも、それからも、もちろん、いや、おそらくと表現する方が適切な気がする。

私は意識的に誰かを差別しようと思いながら生きてはいない。
けれども意識していない部分では、その意図が差別ではないとしても、結果として何らかの差別をきっとしているのだと思う。

友人からの問い

もう二ヵ月も前になる。

フジテレビの「保毛尾田保毛男」問題が世間を賑わせた。

正直なところ私には「知っている」という以外にこのキャラクターに対する印象はない。
印象がないから、悪い記憶も良い記憶もない。

少なくとも子どもの頃の私は今の私になることを全く想定していなかったから、いわゆる当事者感覚として何かを不快に思ったり何かに怯えたりしてはいなかった。
そう考えれば記憶に残らない程度の日々として、もしかしたら私もこのキャラクターを小馬鹿にしながら笑っていたのかもしれない。

この件に関して、親しい友人の幾人かは私に同じことを聞いた。

これって本当に問題になっているの?

私の友人である。
共通の友達の中にもLGBTに含まれる人は一人や二人ではない。
もしも立場を表明することになるのなら、決して活動的なアライ(性的マイノリティを理解・支援する考え方の人々の総称)ではないにしても、日常に暮らすアライではあり、少なくともセクシャルマイノリティに対する差別や偏見はないと言っても間違いはない人たちである。

私は当日の記念番組を観ていなかった。
それに今やプライベートも職場も含めて、セクシュアルマイノリティであるがゆえに私をバカにしようと考える人も私の周囲には一人もいない。
だから友人も疑問に思ったのかもしれない。

本当に傷ついている人っているの?

そして事実、この件は私にとって無害だった。
騒ぎ立てることもない話だと言い切ってしまうことだってできたと思う。
けれども、心の痛みに共通性を持つ仲間たちが発するSNSでの声を知る程に、私には簡単に答えることもできなかった。

個人的には自分のアイデンティティをゲイに持っていないから、正直なところ私は何も思わないけど、声を上げている人の気持ちがわからないわけではないから、少なくともこういう声が上がるようになったことは、とても良いことだと思う

友人は素直に「そっか」と言い、納得して話を終えた。

同性婚とシングルマザー

反省していることがある。

以前、話の成り行き上で同性婚の是非について話し合った際、参加者の一人がこう言った。
少しずつ同性パートナーシップ証明をする自治体が出てきたことに対しての意見だった。

私はとても良いことだと思う。同性婚できる自治体もあれば、できない自治体もある。これこそが、世の中の多様性だと思う。

この言葉を聞いて、正直なところ私はムッとした。

反対意見ならばまだわかる。
同性愛や同性婚に強く反対する人がいることは承知の上だから、それこそ徹底抗戦の構えで相手を納得させようと言葉を尽くしたと思う。
けれどもこれが、さも理解したような姿勢で、自分は味方だと言わんがごとくに発せられたから始末が悪かった。

私の意見がどんなに乱暴であるかも無視して、本音ではこう言いたいと思っていた。

バカなことを言うんじゃない。これは人権の話であって、決して多様性の話をしているんじゃないよ。ならば人々は、親がシングルでは子育てを許されていない自治体と、親がシングルでも子育てを許される自治体があったとして、それも多様性だと言うの?誰もそんなこと思わないでしょ?でもね、あなたが言っているのは、それと同じような話だよ!

けれども、私には沈黙しかできなかった。

理由は簡単だった。
それは悪意のない言葉で、自分は世の中に対して寛容であり、まさか自分が差別しているなんてことは微塵も思っていない人の意見だった。

その意見に反対する自分が、とても煙たい人だと思われそうで、とても心の狭い自分勝手な人間に思われそうで、瞬間ためらった私は何も言うことができなかった。

あの日を思い出す度に、私は後悔している。責めることはなくとも、どうして冷静に疑問を投げかけることができなかったのか?
相手に少し立ち止まって考える機会を提供することさえできたなら、何かは変わったかもしれないのに。

瞬時にムッとした私がしたのは沈黙の賛同だった。
それも自分の印象を守るためだけの沈黙でしかないものだった。

私は誰を差別しているのか?

本音で私は、差別の憂き目にあったことがない。

背景には、家族をはじめとして周囲の人間にとても恵まれたという事情があるのだと思う。
もちろんそれがすべて「」で賄われているとは思わない。
愛されるための努力もするし、愛することを諦めたりもしない。

誰よりも周囲の人を大切に想いながら生きてきたとは思うけれど、それだって私が人生で最初に触れた「」に愛されて認められながら生きてこられたことが良い影響を与えているのだと言われれば、それは間違いない事実だと思う。

ただ、それでもふとした時には「そもそも」なんてことを考えたりもする。

果たして本当に差別されていないのか?
差別されないように生きているだけなのか?

例えば、肌を綺麗に見せるために化粧下地は塗るけれど、ポイントメイクはほとんどしない。
キレイにメイクしている女性を羨ましいと思うこともあるけれど、「私がしても……」と思って躊躇している。
ファッションにしても同じ。
スカートを履いたとしてもすべてロング。

周囲を見渡せば「私の方が足はキレイ」だと思う人がいないこともないけれど、どんな足の女性がミニスカートを履いていたとしても、私に出せるのはくるぶしまで。
それ以上に短くするには、周囲の目のみならず、自分の感覚がOKを出さない。

ほろ酔い加減で良い気になって男子と腕を組もうとする時だって、それは周囲に仲間がいるときに限られている。
それが二人の場ならば、相手が身構えて嫌悪の顔を見せた時に、私には耐える術がない。

体を変えたのは見えない場所だけ。
名前をそのままに、戸籍を変えず、二択ならば男子トイレを使う。

何がそれを決定させているのかを考える時、もしかしたらすべては「私から見た社会の許容範囲内のこと」なのかもしれない、と時々思う。

私はきっと心の奥底で、社会を強烈に意識した算段をつけて生きている。
では、その算段の根拠になるものは何か?

それは私自身が手放していないセクシャリティにおける「差別の目」ではないだろうかと思う。

男だから、女だから

最も私が忌避すべきはずの言葉をまだ私自身が心の内に大切に忍ばせているから、私は差別されずにいられるのかもしれない。

私は差別している。自覚だけは、もうある。

無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。
(『寝ながら学べる構造主義』内田樹著)

これは、友人に勧められて読んだ本の中にあった一文。

子どもの頃には、30才になって結婚していない人など何かしらの難がある人だと思っていた。
そこにいろいろな背景や事情、選択があることなど考えもせずに、当然のこと自分には結婚して親になる未来があるのだと信じて疑わなかった。

保毛尾田保毛男」問題が世間をにぎわせたとき、その対抗馬に身体的特徴である「ハゲ」や「デブ」が登場した。
話題への強い関心があったわけでもないのに、直感的に「ハゲやデブと一緒にしてくれるな!」と私は思っていた。

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